「キャッチャー・イン・ザ・ライ」「サリンジャー戦記」

キャッチャー・イン・ザ・ライ翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)
村上訳の「キャッチャー」と、その翻訳を出すにあたって村上春樹柴田元幸が対談している新書を読みました。ふだんはぜんぜん本を読まないんだけど、なにしろすることがないので。でもなぜか、昔から4月だけは本が読めるんだよなー。
「キャッチャー」は、今の若者に読みやすいように翻訳してるので、読みやすかったです。ホールデンは、とても真摯な人物なんだろうけど、どこまで本当かわからないところがうさんくさかった。友達がうざいことをしてくるのと同じぐらい、ホールデンもうざいことをしていると思うし。エレベーターボーイから、5ドルって言われてたはずなのに10ドルとられてしまうところはまだ、ホールデンを信用できたんだけど、サリーと話しているところで、ホールデンはぜんぜんふつうに話しているのに、サリーが「大声出さないで」って言うのは、ほんとうにホールデンが大声を出しているんだろうなって思った。
あと、不思議に思ったのは、この話の中では父親が不在で、兄弟が並列する形で家族が描かれているんだけど、フィービーが何回も「お父さんに殺されちゃうんだから!」って言うのは、どういうことなんだろうなあ。不在の権威なのかしら。
対談のほうが、読んでいてふつうにおもしろいなあと思ってしまいました。というのは、小説そのものを読むより、この小説はこんな風に考えられるっていうふうな話を読んでいるほうが楽しくて、それはどうかと思うんだけど。でも、この小説はキーワードで因数分解しちゃうととたんに失われる魅力がある、といっていて、それもわかるし。ひとつの観点から読み解くなんてのは、作品をつまんなくしちゃうことで、私ったらなんで小論文なんか書こうとしてるんだろって思ったりもしちゃう。それでも読み解く作業自体はおもしろいし、おおざっぱな位置づけがないと私はぜんぜん本が読めないみたい。この本はこういう意味(本の中に、また他の本と並べたときに)がありますよというのを前もってわかっておくことでようやく本が読める。へんだな。しかし、それが読む気をなくさせる意味づけだと読まず嫌いで終わっちゃうしな。

柴田 高校や大学のころは、ホールデンなり『キャッチャー』なりに共感する連中にかえって反発したくなる文脈があるんじゃないですかね。僕は世代はちょっと下ですけれども、村上さんも通過儀礼だとおっしゃったとおり、これを読まないやつは人間じゃない、読んでしびれないやつもだめだみたいな、何かそういう……
村上 感性のリトマス試験紙みたい。
柴田 そうですね。だから、読むのにあのころはよけい抵抗がありましたね。
村上 今でもやっぱり、そういう抵抗感って、ある人はあるんじゃないかな。
柴田 そうですね。要するに、一種の「制度」になっていますよね。反体制という、もうひとつの体制。

「キャッチャー」に限らないけれど、やっぱみんなそうなんだなーと思って安心しちゃったよ。