ぼんやり生き続ける

幼いころからはらはらと不安がちでつらさを抱えこみながら日々を送ってきた一方で、余計な心配に気をとられすぎなようで、異常にぼんやり生きていたことがときどき発覚します。

今まで、野球で守備をしている人は、守る番になったらどこからか現れるような気がしていたけれども、攻める番の時バッターをしていた人達が守備に回っているのだということに、昨日はたと気がつきました。

毎週のズムサタを楽しく見ていて、今年ぐらいから、プロ野球選手には投げるのが得意な選手と打つのが得意な選手がいるな、ということが自分の中でしっかりと理解されてきました。中継ぎとか抑えとかの概念も理解され、全っ然野球のこと知らなかったのに大した進歩だわいと思っていました。
巨人の投げる側は内海や菅野や沖縄の人(宮國)やぐっさん(山口)がいて、内海や菅野や宮國は先発投手だけど、ぐっさんは途中から出て来る役割の人。打つ側は坂本とか男村田とか長野(非常に几帳面)とかいて、阿部慎之助もキャッチャーだけどよく打つ人。
それで、打つ人が、守る番になったら守備をやると思ってなかったので、えっ!?坂本とか男村田とか、打つだけじゃなくて敵が打った球を捕ったりもするの!?と、非常に驚きを感じました。
イチローがレーザービームとかいってすごい離れたカゴに球を投げ入れる映像もズムサタて見ましたが、打つ天才は投げるのも上手なんだなぁと思っていて、イチローが外野手を務めているとか、考えたこともありませんでした。
さすがにこれは、なぜ今までわからずに来たのかもわからない根本的な認識の欠如であり、ヤバいと思いました。
あと、こうまでも野球を一切わかってない人に、巨人の選手への興味を持たせるズムサタはすごいなぁと思います。父がアンチ巨人なのもあり、自分が巨人の選手の顔と名前を認識しているなんて昔の自分には予想もつきませんでした。

あと、時代の変遷についての無理解というか、生まれる前=全部昔という感じで、何世紀とか何年代の時代の雰囲気はどういう感じだったのか、ということを全然わかってないなぁ、と最近になってよく思います。
大学生のころに、自分の両親にも青春時代というものがあって、その頃の時代の状況はけっこうわたしが大学生の時点とは違っているところがあるぞ、とわかってきて、それが高度成長期なんだなぁ、とおもしろく思ったので、その時期のことについて勉強しました。
それで、せいぜい戦後からぐらいの時間が、今の世の中につながっていると実感できる長さであり、それより昔は、全部昔、歴史っていう感じで、わたしには今への連続性が認識不可能でした。(あと戦後でも冷戦のこととかはまだわかってないです)
でも、最近、例えばおじいちゃんとかおばあちゃんにも若い時期があったり、そのまた親や親の親の世代とかは、江戸時代からの影響が残ってる世の中を生きてたりしたのかなぁとか、だんだんそういうことにもほんの少し思いを馳せられるようになってきました。藩の時代の人達が色々やったのが今につながっているということがぼんやり理解されつつあります。
華麗なるギャツビー」や「風立ちぬ」を見て、1920年代ってこういう感じだったのかぁ、と思ったりして、なんとなく20世紀の各年代の雰囲気を感じはじめてきたので、この調子で少しずつ理解を深めていけたらいいなと思います。
一応、歴史は学校で習っているので、事件名とか聞き覚えないこともないのですけど、ぼんやりしていたため、理解できてないまま、根性のみで乗り切っていたようです。