歌謡祭の季節

年末の歌番組シーズンとなり、平井堅がベストヒット歌謡祭のホールで歌う「桔梗が丘」もベストアーティストの紅葉の醍醐寺で歌う「桔梗が丘」、雨の中番傘をさした「時代」も良かったですね。
FNS歌謡祭には今年は本当に出ないのだろうか、2011年に薬師丸ひろ子と「Wの悲劇」を歌ったり、去年は「告白」で僧侶のような衣を斜めに掛け、肩に鳥を乗せて歌う「ビルマの竪琴」ルックでお茶の間の度肝を抜いたというのに……。
わたしは「告白」という曲自体もとても大好きで、ゴシックで重厚なフィギュアスケートのプログラム曲、白鳥の湖のような感じもするし、繰り返されるメロディーが心をがっちりつかむし、「廻せど廻せど裏は裏」という息苦しい歌詞の世界にも浸ってしまいます。
告解師のイメージか、この曲を歌うときの平井堅はMVでも歌番組でも眼鏡をかけてガウンを着ていて、それも重厚だし非日常的でとてもかっこいいですが、やはり肩に鳥の水島ルックが無敵でしょう。
「告白」と「ビルマの竪琴」は全然関係がなくて、むりやり共通項を探すと「歌」「葛藤」「泣ける」ぐらい、ほとんど脈絡のない強引な引用なんですね。
平井堅は、真面目に感動的にせつなく歌いあげるほど、同時におもしろさ——「シリアスな笑い」も発生することを自覚しているとわたしは考えていて、それが「歌バカ」という自称にもある程度表れているし、それで肩に鳥を乗せたのだろうと推測しています。
わたしにとっては、せつなくて感動するのと同時におもしろさがあるのはとても重要なことです、それがないと浸りきって沈んでしまうので。
わたしの勝手な想像では、平井堅自身もただ感動的な歌だと、たとえば人が病気になったり死んだから泣けるみたいな短絡的な作品のタイアップも増えたりしてしまって、(見る)人を泣かすために(作品の)人が殺されるという暴力に荷担しつづける構造に耐えられなくて、バランスを崩してしまうのではないか、だからおもしろさでバランスを調整しているのではないか、という気がします。
「告白」という泣ける物語の世界に、強引に「ビルマの竪琴」という別の泣ける物語を取り込むことによってするりと感動のための暴力の構造から抜け出てしまって、めったにないウルトラCが完成しているとわたしは考えています。
桑田さんが平井堅のことを「瞳をとじた変質者」と本人を前に形容し賞賛しているラジオレポを見たことがありますが、ほんとうにその通りだと思います。
「脚本の無い人生の舞台で 誰もが泣き笑い芝居」、泣けると笑えるを同時に表現している平井堅の次のパフォーマンスを楽しみに思います。