かわいい人

Dohhh Up!できれいなプロモを見られるので大変重宝しています。ドゥーアップかと思ったけど、どアップってキャプが言っていたね。すっかり、ベリやキュートのみなさんのかわいさが、私の生活をうるおしています。熊井ちゃんはピリリまでだそうなので、ピリリのつぎのプロモがアップされるのをはらはらして待っています。でも熊井ちゃんの歌声が一番すきです。ベリの二大美少女は、りさことみやびちゃんなのだろうけど、二人とも身の回りに似ている(と思う)人がいるから、なんだかふしぎなかんじだな。桃子は、しゃべって動いているところが肝心みたいで、それはあまり見たことがなくて、よくわかりません。
高校卒業以来とくに意識して、生活をかわいい人やものでうめつくしていて、かわいいということが私の中で至上の基準なので、自分は全然かわいくなくても、周辺のかわいいものがあまりに浮き立たないぐらいにはふつうでいたいし、最近湿疹で顔がひどくなってしまって、あんまりみにくい状態だと、気が滅入ってしまいます。そんなふうに、外に出たくないなぁと思ったりすることを、湿疹ぐらいで考えが甘いし、うんざりと言う人もいるけれど、そんなふうに人の感覚や、なやみ(どんなにつまらなく見えても)をばかにしないでほしいです。でも、そんなふうに人を非難するのがその人の価値観なので、それに怒っても仕方がないだろう。ただ、相手がどんなにばかばかしい、反射する白いジャケットや銀色のマジックテープのスニーカーや、原色だししかも色褪せているカラーパンツを穿いていても、私は否定したりしません。
それでも、自分のかわいいものを大事にする価値観にあんまりこだわっていると、高校のころ受験で成功するのが大事と思っていたころの価値観のように、自分自身がそれに適合できなくなった場合、今回は自分がかわいいものからあんまり浮いていると認めた時にどうしようもなくなってしまうな。ひとつの基準にしがみつくのは、あぶないことだわ。それに、なにかほかの基準をまた作ったって、自分をその基準で評価したときにいつでもはずれずにいられるのは不可能です。だから自分がなになにの基準で合格だから安心するのは危険なことです。でも、基準を作って生活することがその人のアイデンティティなんじゃないのかしら?アイデンティティを持つことはいいことのように思われるから、むずかしいな。
かわいいアイドルの人をすきになる気持ちはすごく自然で、その人がかわいくなくなったら気持ちが離れるのも自然な心の動きなんだけど、かわいくなくなった人は終了なのかしら?アイドルはかわいいこと(または幼い、若いこと)が商品価値だから、かわいい基準から外れたらまた今度は別の基準を満たすように(演技派とか)して必要とされるようにしなければいけないのかしら?
私が心配しているのは、ピリリ以降の熊井ちゃんはなんなのか、どうなっちゃっているのかってことです。もちろんそれは単なるおもしろ言い回しの意味が強く、熊井ちゃんは今もとってもかわいいと評価するファンも多いけれど。会社人間の定年後と同じです。定年の後も、その人の人生がほんとに終了したわけじゃなくて、会社に行かなくなっても、その人はいる。そのときその人はどういう存在なんだろう?